95:5のバランスでいきます。

来週のインタビューイベントに向けて、ちゃくちゃく、と準備を進める。

インタビューのとき使っているお気に入りノートを開き、リサーチをまとめる。

前のページをたどると、就職してから恩師にもらった言葉の走り書き。
一語一句同じではないけれど。

「あなたが見つけるべき答えの95%は社会の中にある。だから、あなた自身が社会の中で経験をし続けることが大事。今まで学生としてやってきた研究から頭を離すのが難しいのはわかるけど、5%の研究視点を常に持つように心がければ大丈夫、研究はいつでも、したいときに戻ってくればいい世界だから。今、執着しなくてもいい。むしろ、その5%だけに常にとらわれている人は、自分のことだけにフォーカスしている人。自分のためだけじゃなくて、社会のために、何が出来るか、何を返していけるかを考えてみたらええんちゃう。」

95:5のバランス感覚で、今度のイベントも、これからのなにかの集いも、いろいろなことを開けたら、書けたら、発信できたらいいなと思っています。

よい問いとは?に関する一考察

一年以上前に書いて下書き保存されていた記事をいまさらに。
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日本科学未来館で開催されている企画展、世界の終わりのものがたり展に行ってきました。


世界の終わりのものがたり展 


科学と哲学が融合した問いが73問、立て続けに投げかけられます。
おもしろい展示だったし、お客さんのおもしろい行動を観察できました。

展示を見て、お客さんを観察して、
良質な問いとは?、ということを考えさせられました。
初めての人に会うとき、久しぶりの人と近況報告するとき、 インタビューをするとき、
その人に近づける、その人を考え込ませるいい問いってなんだろなあ、と考えます。

世界の終わりのものがたりの展示の「問い」は、
オープンクエスチョンとクローズドクエスチョン(yes/no、選択範囲がある、など)
が入り混じっていました。
「生と死の境はどこにあるのでしょう?」→オープン
「最期のときをだれと一緒にすごしたいですか?」→ややクローズ
「変化することと持続することは、両立できるのでしょうか?」→クローズ
などなどの問いが73こ。(なぜ73だったのかしら)

深すぎるオープンクエスチョンがいきなりくると「うっ」と構えて、
本当は思ってもないけどそれっぽいことを答えてしまいそうになります。
回答者を本当に考えさせて、うならせる問をたてることとは難しいですね。
この展示の問を考える会議に参加したかったです。

展示は、はじまり、で終わっていました。
終わりははじまり。

問「終わり」から、あなたが始めるものは何でしょうか?
  What are the things that you would start from an “end”?

私の答え:  新しいブログとメルマガ。
My answer: New Blog and Mail magagine.

世界のおわりのものがたり展では、お客さんの「動線」についても考えました。
つづきは、またこんど。

Show must go on!

黒イヤホンと白イヤホン

朝の通勤、電車のホームで観察。


黒いイヤホンをしているおじさまと、
白いイヤホンをしている若者。


黒イヤホンを片耳につっこんで、ラジオをきいてる。
白イヤホンを両耳につっこんで、マイク近づけて電話してる。
このおじさまと若者は、
同じ会社の違うフロアに行くのかもしれない、と妄想してみる。


黒イヤホンと白イヤホンが、
同じ組織で仕事をしてるってすごいことじゃないか?と思う。

例えば、とあるひとつのサービスを組織が提供していて、
そのサービスに、黒イヤホンと白イヤホンが、素で、そろって、いいね!
と思うことなんてあるのかな。
若手白イヤホンの企画は、どうやって黒イヤホンのGOサインを獲得するんだろう。
色んな壁があるんだろうな。


ちょっと前まで、白いイヤホンばかりの世界にいた私は、
そんなことを思いましたよ、っと。


もうすぐ2回目の4月です。

『しつらえ』と『幼児教育』に関する一考察

これまで、茶道のエッセンスを使って、いくつかの場とかちょっとした仕掛けを考えてきました。
私は茶道の家元ではないけれど、しつらえ、もてなしなど、茶道には「学び」や「場」に関する
たくさんのヒントがあると思っているので、面白いと思っています。


でも、
わたしが茶道のしつらえ・もてなし、に惹かれるのは、
もう一つのルーツの影響があるな、とふと思いました。


それは、学部時代に学んだ幼児教育。
幼児教育の「環境づくりをとおして幼児の主体的な成長を支援する」
という考え方がすごく面白いと思っています。


幼稚園での教育実習のとき、こんなできことがありました。


ちょうど子どもの目の高さくらいの机に、
子どもが作った作品を並べて持ち帰れるようにしておいて、
と先生から言われ、わたしはせっせと並べました。


このように、きれいに。


  □ □ □ □ □
  □ □ □ □ □
  □ □ □ □ □



でも、すぐ先生に直されました。
このように。

  □ □ □ □ □
   □ □ □ □ □
  □ □ □ □ □

↑こちらから見るとちょっとずつずれている。
先生「こどもの目線で見たら、奥に自分のがあったら、わからないでしょ」


私が並べた並べ方(上)だと、
隣で上から見ている大人がいれば、すぐにとってわたしてあげられる。
けれど、先生のように並べれば(下)、
目線の高さと同じテーブルから、子どもは自分の作品を自分で探して
自分でとることができる。


大人にとってもらうのではなくて、
自分で選ぶということが、こどもにとっては大きな一歩。
自分で選ぶという行為を引き出せるかどうかは、
大人の環境づくり、しつらえ次第。
私はこのシーンをそう思い返します。


茶道のお茶席も、イベントやワークショップの場も、
こういうちょっとしたしかけのエッセンスがたくさん絡み合ってなりたっている。
どうしつらえれば、どんな学びが起きるのか。
これからいろいろ試していけたら良いなと思います。

どこまで仕込んで、どこを引くのか。そういう問いもでてきますが、
まずは、仕込む、しつらえる、環境を作るということについて書きました。

「active audience」と「場作り」に関する一考察

年明けくらいからずっと「能動的受動」という言葉が気になっていました。
ということを、先日、久しぶりに劇場で観劇をしながら思い出しました。


きっかけは、お二人。


@tomokihirano さんのツイート
「鑑賞とは受容とか理解を超えた新たなクリエイションなのではないか、
というのは、メディアリテラシーや視聴覚教育の勉強をしていた大学生
時代の「能動的な受動性」というテーマに通じる。 #marebi」
(https://twitter.com/#!/tomokihirano/status/157467208149245952)


@nakaharajun先生のブログのイベントの告知
『「TEATRO FORUM」の「TEATRO」とは、劇のことです。
書籍内容・研究発表のスピーチを聞くだけではなく、観劇するように、
参加者の皆さんと場を作り上げていくことを目指します。』
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/01/act_319.html


もやもやポイントは、たぶん、ココ。
「能動的な受動って矛盾してない?」
「観劇って見る、聞くんじゃないの?観劇して、みんなで「場を作る」って?」


先日、わたしが観劇したのはミュージカルでした。
  見せ場が終わった瞬間のお客さんの拍手。
  感動的シーンのお客さんのすすり泣き。
  最高潮のスタンディングオベーション
そんなものを見ながら、
たしかに、この場はみんなで作ってるなあと思いました。
ほかにも、ライブとかでアーティストは
「一緒にもりあげていきましょおお!」とよく言うし、お客さんはそれに答える。


能動的観劇。能動的受動。


場を創るという行為は、
パフォーマンスする人とか、ワークショッパーとか、
デザイナーとか、ファシリテーターの特権ではなくて、
参加する人、そこにいあわせた人にも平等に与えられている機会なんですね。


視聴覚教育とか、「見る人」の熟達についても書きたくなったけど、
きょうはここまで。


Show must go on!

おじいちゃんの卵焼き

いま、祖父母宅に借り暮らししています。
おじいちゃんおばあちゃんと暮らしている、というと
とてもほっこりしたやんわりな雰囲気を感じますが、
実際のところ、そんなほっこり、まったりもしていられません。
生活スタイルが違いすぎることで、日々すれ違ってしまいます。



たとえば。
ひとつのすれ違いは、朝食。
わたしは朝食を食べない。
でも、「食べなきゃダメ」と作ったものを持ってこられてしまう。
けど、私は朝食は食べられない。


食べ物あまってしまう、しょんぼり。
せっかく作ったのに食べてくれなかった、しょんぼり。
しょんぼりさせてしまった、しょんぼり。


しょんぼり、しょんぼり、しょんぼり。
しょんぼりスパイラルの中、出勤。



私はこの負のしょんぼりスパイラルを変えることにしました。



お弁当を作ることにしたのです。
出された朝食とちょっとしたおかずを作って、お弁当箱に詰めて出勤します。
お昼のオフィスは節電で真っ暗だけど、自席で食べるお弁当にほっこりできます。

すれ違いの多い生活だけど、
お弁当というシステムを導入したら、
作ったご飯を食べてくれる、にっこり。
コンビニ弁当じゃない、にっこり。
おじいちゃんの卵焼きおいしい、にっこり。


社会人になって、いちばん、
人生って自分で変えていくんだなって思った出来事でした。


2012年も、ハッピーを作り出していきたい。
そのためには、みなさまのお力添えが必要です。
さっきのお弁当の話も、おじいちゃんのおいしい卵焼きが、
あったからこそ、ハッピーお弁当システムを作れたのです。

おじいちゃんと私の無限コラボレーション。
これからも素敵なコラボをしたいと思います。
本年もよろしくお願いいたします。

Let us enjoy collaborative learning life!
Show must go on!

「セレンディピティ」と「越境」に関する一考察

*ヒトコト
書くことは、考えること。
とにかく、書くことにした。
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久しぶりに、セレンディピティがおきた。うれしい。

セレンディピティ=予期せぬ幸運、偶然(定義 by hakonyan)

セレンディピティって、日常生活とか、研究活動とか、学習とかにとって、
すごく大事な要素だと私は思っています。

私におきたセレンディピティについて語ってから、
私の考える「セレンディピティのちょっとしたコツ」について書きます。


**


今日起きたセレンディピティは、ヒトコトで言うと、
「昨日、友人と話していた内容が、今日たまたま購入した小説の中に
そのままお話として描かれていた」というできごとがあった。
単なる偶然だけど、なんか嬉しい。
こういう偶然って、ときどきありますよね。


さて、
セレンディピティ」についてネットで調べていたら、
セレンディピティ=予期せぬ幸運、偶然」という
私なりの定義が間違っていることを知りました。


セレンディピティ(英: serendipity)とは、
何かを探しているときに、探しているものとは
別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。
何かを発見したという「現象」ではなく、
何かを発見をする「能力」を指す。
平たく言えば、ふとした偶然をきっかけに閃きを得、
幸運を掴み取る能力のことである。
Serendipity:
the natural ability to make interesting
or valuable discoveries by accident
Longman Dictionary of contemporary English
wikipedia より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%94%E3%83%86%E3%82%A3


セレンディピティは「現象」ではなく、「能力」!
知らなかった。
こんな素敵で楽しい能力はどうしたら身につけられるのだろう。


私は、「越境」することにヒントがあるのでははないかと思う。


例えば、上で書いた本日の私のセレンディピティ能力は
以下の条件の元で発動された。
(まあ、厳密には単なる偶然だけれど、
自分としては価値有るものを発見したと思っているのでよし。)

いつも遊んでいる友人ではない友人の組み合わせで遊ぶ。
いつも遊んでいる場所ではないところにいってみる。
いつもは全く読まない著者の小説を買う。
いつものぶろぐネタではないことを書いてみる。


「いつも」自分が生息しているエリアの境を越えて「越境」してみると、
「いつも」の世界の異なる観方を得ることができる。
「いつも」の世界に「いつも」どおりきっちりハマっていたら
知らなかったコト、見えなかったコトが、
越境したことによってみえてくる。
越境することで、予期せず価値あるものを見つける経験がもたらされ、
「ふとした偶然をきっかけに閃きを得、幸運を掴み取る能力」
が身についていくかもしれないな、とおもった。


最近、気づいてきたのだけれど、
どうやら人生はまだ長いようなので、
セレンディピティを磨きまくって楽しく生きたいと思います。



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>海外の大学に留学とか、学会にいってみるみんなへ
日本を越境した先で、セレンディピティを発揮しまくってきてください*
おみやげ話を楽しみにしています。
私も旅でもしようかな。

セレンディピティwiki link
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%94%E3%83%86%E3%82%A3